クリスマスを前に、街はイルミネーションで華やいでいる。肩を寄せ合って歩く恋人たちや、手を繋ぎ、微笑み合いながら歩く家族連れ――。2008年のイブもそうだった。街に煌びやかな電飾が瞬く中、それを見下ろす渋谷の高級マンションの一室で、遺体で見つかったのが飯島愛(享年36)。今年ではや17回忌を迎える。なぜ彼女は孤独死したのか。「週刊新潮」では彼女の死から10年後の2018年、親友と言われた「モト冬樹」にインタビューしている。それを再録しながら、彼女の人生を振り返ってみよう。 (「週刊新潮」2018年12月27日号記事に大幅に加筆しました)
この12月13日。生前の彼女がレギュラー出演していたTBS系「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」のエンディングでは、「飯島愛さん あれから16年が経ちました」とのテロップと共に、当時の飯島の映像が流された。そして、「今年もあとわずか。この時期になると、飯島愛さん、あなたを思い出します」「愛ちゃんでも、聞いたら驚くようなことが、今年たくさんありましたよ。これからも見守っていてくださいね」とのナレーションが。同番組では毎年、この季節になると追悼VTRが流される。死後16年が経過しているが、いかに彼女が出演者に、そして視聴者に愛されていたかを示す場面だ。
お金が欲しい
まずは彼女が著した自伝を元に、飯島の人生を振り返ってみよう。 飯島は1972年、江東区亀戸で生まれた。3人きょうだいの一番上で弟が2人いた。会社経営者の父は躾に厳しく、鉄拳が飛んでくることもしばしば。母は「あなたのためだから」と言うばかりだった。それでも優しい祖父が支えとなっていたが、中1の時、その祖父が亡くなって以後、生活が荒れる。歌舞伎町に出入りし、万引きや、カツアゲをした金でディスコに入り浸った。家出をしては連れ戻されることを繰り返し、しばしば警察の世話になるように。やがて自宅を出て、男と同棲生活を始めた。 高校を中退し、六本木のクラブなどで働くようになったが、やがて今でいう「パパ活」にも手を染めるようになった。そして旅行で訪れたNYに留学することを夢見て、「お金が欲しい」とビデオ女優としてデビュー。その直後、「ギルガメッシュないと」(テレビ朝日系列)に大胆な衣装で出演すると、一躍人気を博し、タレントへと転身したのだ。
170万部のベストセラー
ビデオの世界から引退し、レギュラー番組を何本も持つ「人気タレント」となった飯島が、「文化人」にまで位置づけられるようになったのは2000年。波乱万丈の人生を綴った自伝が、170万部を超えるベストセラーになった。著書の中では、妊娠、中絶、整形手術をしたことまで明かし、また父母との和解も記している。テレビドラマ化、映画化され、台湾でも翻訳出版された。とりわけ自らの居場所が見つからない女性たちに、大きな共感を持って受け止められたのである。 これを機にますます引っ張りだこになった飯島だが、この頃から心身を壊していく。身体は細り始め、収録に遅刻したり、ドタキャンしたりすることもあった。2007年には腎盂炎による体調悪化を理由に、芸能界を引退。以後はブログを更新しながら、女性のために避妊具を販売する会社の起業や、エイズ撲滅キャンペーンにも取り組んでいた。そんな最中の2008年12月24日。自宅である渋谷の21階建て高級マンション最上階の一室で、死後一週間経った状態で発見されたのである。遺書はなかった。突然の死は謎を呼んだが、後に死因は「肺炎」と発表された。 それから今年で16年が過ぎたが、今なお、その鮮烈な生き方と謎の死がメディアなどで折に触れて取り上げられている。
常に全力
そんな飯島の芸能界における「親友」がモト冬樹(73)だった。「週刊新潮」では、飯島の死から10年後の2018年、モトに取材をし、彼女の死の真相について聞いている。 「あの時(=飯島の訃報を聞いた時)、オレは映画を撮っていたんだよね」 モトはそう振り返っている。 「そしたら、共通の友達からの電話で飯島が亡くなったことを知らされた。説明するのが難しいんだけど、とにかくビックリして、がっかりしたのに、どこかで納得している部分もあるというか……。アイツ、常に全力で、周りを引っ掻き回して濃く生きてきたでしょ。これだけ驚かせるなんて、アイツらしい逝き方でもあるんじゃないかな、って」
来るなら夜に来い!
2人が出会ったのは、日本テレビ系「夜も一生けんめい」での共演。そこで意気投合し、プライベートでも行動を共にするようになった。家族旅行に同行したり、弟の結婚式にも呼ばれたりしたという。週刊誌に「恋人」と書かれたことも一度や二度ではなかった。 「あの頃はオレも独身でフットワークが軽かったから、しょっちゅう遊びに行ったよ。映画に誘ってきたから行ったら開始10分で寝始めたり、オレがオーストラリアでお土産に買ってきた羊毛の敷物を、犬がおしっこする場所にしていたり……。なぜかアイツの家族旅行に呼ばれて香港に行ったこともある。旅行中、飯島がホテルのオレの部屋のベルを鳴らして、“買い物付き合ってよ”と言うから、ドアを開けながら“なんでだよ、部屋に来るなら夜に来い!”ってギャグで切り返したら、隣に渋い顔したお父さんが立ってたんだ。お父さん、マジメな人だからあの時は焦ったよ。ふざけてばかりで人をおちょくる奴だったけど、一緒にいると本当におかしくって仕方なかったな」
弱々しい声
「元気? ご飯でも行こうよ」 モトのところに一本の電話があったのは、彼女が亡くなる直前のこと。 「今になって考えるとだけど、電話越しの声がいつもより弱々しかったんだよね。でも、その時、オレ仕事が忙しかったの。だから、いつもと同じ軽い調子で、“また今度、時間がある時にな”って断ってしまって」 それから程なく、飯島は息をひきとり、誰にも発見されないまま1週間もの時を過ごしたのだ。
7万2000件の書き込み
彼女の死後、驚きを持って受け止められたのは、両親によって継続されたブログに、彼女に向けてのメッセージが多数寄せられ続けたことである。「あいちんは元気かな? ? って おかしいかもしれないけど…まだ何処かに居そうでさ…」「愛ちゃん いつも助けてくれてありがとう 私、愛ちゃんの愛にいつも救われてるょ。。。」。こういった書き込みは2015年に閉鎖されるまで7万2000件にも及んだ。 飯島の死後10年経ち、モトはこんな思いを抱いたという。 「あの時、会って話していたら、悩みなんかを聞くことが出来たかもしれないね。そうしたら……。アイツと付き合って味わう、唯一の後悔だな」 意外にも彼女の墓参りに行ったことは一度もない。 「だって、飯島はあそこにいないじゃん。でも、年に何度か必ず思い出しますよ。一緒に行った場所にたまたま行った時とか、ふと、ね。遊びに行ったり旅に行ったりした時も、飯島がいたら面白いだろうな、と思う。彼女がいなくなっちゃった分、芸能界がつまんなくなっちゃったなあとか、ね」 このインタビューからさらに6年が経ち、テレビの世界はますまず窮屈な場所になってきたように思える。死して16年。本音で生き続けた飯島がもしこの世にいたとすれば、建前ばかりが幅を利かせるようになった今の芸能界を、一体、どのように見たことだろうか。