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中山美穂さん元夫・辻仁成氏の“金言”にネット反響「心が軽くなる」「一番言ってほしかった言葉」

今月6日に死去した中山美穂さん(享年54)の元夫で、ミュージシャン、そして作家の辻仁成氏(65)が21日に自身のX(旧ツイッター)を更新し「父ちゃんからのお願い」をつづった。

辻仁成さんは元妻・中山美穂さんの葬儀当日にブログを更新し、「今日は久しぶり…」約10年ぶりに長男と対面 - YouTube

辻氏は「父ちゃんからのお願い」と切り出すと「自分が壊れてまで人に優しくするの無し 嫌われたくないからといって、みんなに優しくすると必ずつらくなります 優しい人と思われなくても生きていける 今がきついなら、やめてよし」とポスト。

中山美穂さんと離婚した元夫・辻仁成氏「家庭に女優を持ち込むな」パリ夫婦生活での違和感と、美穂さんが描いた“老後”(3ページ目) | 週刊女性PRIME

また「無理して嫌われなくていいが無理して好かれなくてもいいのだ とにかく周りは気にせず生きなさい」とつづっていた。

ユーザーからは「何だか、一番言ってほしかった言葉をかけてくれている感じがした」「心が軽くなります」「父ちゃんからのお願い、受けとめました」「どうして仁成さんは そんなに強いんだろう ひとつひとつの言葉に助けられる」「辻様も、良い旅を!」といったコメントが寄せられていた。

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西田敏行さん『紅白』の追悼企画決定で

12月31日の大みそかに放送されるNHKの『第75回紅白歌合戦』。だんだんと番組の全貌が明らかになってきている。 米津玄師のゲスト出演などの他、注目されているのが大物俳優の追悼企画だ。10月17日に亡くなった西田敏行さんを偲び、西田さんの代表曲『もしもピアノが弾けたなら』を、西田さんと親交が深かった松崎しげる、田中健、武田鉄矢、竹下景子の4人が歌うことが21日にNHKから発表された。 「この曲は1981年に、西田さん主演のドラマ『池中玄太80キロ』(日本テレビ系)の第2シリーズの挿入歌として発表されました。同年の紅白歌合戦に初出場した西田さんは、1990年に白組の司会も務めました。 追悼企画では、在りし日の西田さんの映像も流されるそうです」(芸能担当記者) 紅白歌合戦の「追悼特別企画」として思い出されるのは、2022年、上島竜兵さんの急逝後、ダチョウ倶楽部の肥後克広と寺門ジモンが歌謡グループの純烈とユニットを組み、司会・有吉弘行の猿岩石時代のヒット曲『白い雲のように』(1996年)を熱唱したことである。上島さんを慕い続けた有吉の目にはうっすらと涙が浮かび、Xには《素敵なパフォーマンス 感動しました「ヤーー」!》《やっぱり有吉の「白い雲のように」は胸熱だったな。。》などのポストが寄せられた。 そして今、SNSでは12月6日に亡くなった中山美穂さんも「紅白歌合戦で追悼してほしい」という声が多く寄せられている。 「中山さんは1988年から7年連続で紅白歌合戦に出場し、『Witches』『愛してるっていわない!』『世界中の誰よりきっと』『ただ泣きたくなるの』などを歌いました。 また、NHKのドラマにも多く出演していて、1992年は大河ドラマ『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年)、プレミアムドラマは『プラトニック』(2014年)、『平成細雪』(2017年)で存在感を示していました。NHKの番組への貢献度も高いと思います」(同前) Xには《西田敏行さんを追悼するのであれば、中山美穂さんも、と思うのだが》《紅白に大河ドラマとNHKと縁も深いしね 中山美穂さんの追悼もあったらいいな》などの切望の声、さらには《西田さんと八代亜紀さんと中山美穂さんと真島茂樹さん追悼でマツケンサンバは絶対やるべきだと私は思います》といったポストも見られる。 「今年は本当に多くの大物歌手、俳優の方々が亡くなりました。『紅白』は、一年の総ざらいという気持ちで視聴する方も多くいるでしょうから、追悼企画でどの方を取り上げるのか、どう取り上げるのかが気になるところでしょう」(同前) 『紅白』を見ながら、故人が活躍していた時代に思いをはせる視聴者も多いことだろう。

「愛されている名前を残した」中山美穂さんの母親が営んだレストラン関係者が明かした在し日の思い出

12月6日、渋谷区にある自宅の浴槽内で亡くなっていることがわかった歌手で俳優の中山美穂さん(享年54)。所属事務所は死因について「入浴中の不慮の事故」と伝えている。 “ミポリン”の愛称でトップアイドル、そして女優として活躍した中山さんは1970年3月、長野県の自然豊かな町で生まれた。’ 両親は中山さんが3歳のときに離婚。それ以降、中山さんは母子家庭で育ち、親戚の自宅で過ごすことが多かったという。ところが、そんな彼女に大きな転機が訪れる。広く知られているように、母親が秋田県出身の男性と再婚したのである。激動の幼少期を過ごしながらも、中山さんが親を恨むようなことはなかったようだ。【前後編の後編。前編から読む】 所属事務所『ビッグアップル』の創業者・山中則男氏も、かつて夕刊紙の取材に「(中山さんは)オーディションには何度も落ちまくっていました。それでも本人が決してデビューを諦めなかったのは、“お父さん、お母さんに立派な家を建ててあげたい”という明確な目標があったからでした」と、その親孝行ぶりを明かしている。 実際にデビューからしばらく経ったあと、中山さんは両親のために都内に家を購入。さらに2000年7月には義父ゆかりの地である秋田県横手市内に、ふたりが創作レストランを開業する機会を設けた。子育てが落ち着いた母親と義父はレストランの経営に携わり、中山さん本人もお忍びで通っていたようだ。店の現オーナーであるAさんを知る関係者がこう語った。 「当時、シェフとして働いていたAさんが、11〜12年前に前オーナー(中山さんの義父)からお店を引き継ぎました。最後に中山さんがお店に来たときに、『Aさんや若い人がすごく頑張っているね。そろそろ(レストランを)受け継いであげてもいいんじゃない』と話していたようで、それを前オーナーから聞いたAさんはとても喜んでいましたよ」 経営は引き継がれたものの、創業当時から変わらない店の名前。そこには“アイドル・中山美穂”に対する、Aさんのある思い入れがあった。 「最近でも、中山さんのアイドル時代のファンクラブの方からお店のほうに年賀状が届いたりするそうなんですよ。お店の大規模な改修などもあり、これまでに店名を変えるという話もあったそうですが、携わった多くの人に愛されていると感じていたAさんはその名前を残すと決めた。 中山さんが突然亡くなったことにAさんはショックを受けているそうですが、『お店の名前を変えなくて本当によかったと思う。(店を)受け継いだ以上は守っていきたい』と話していました」(前出・Aさんを知る関係者) 残された家族やファンの心の中で、中山さんはいつまでも輝き続けることだろう──。

フィギュア青木祐奈が突然の引退意向を表明 「これ以上スケートを嫌いになりたくない」涙で最後の全日本と告白

全日本フィギュア・女子フリー フィギュアスケートの全日本選手権は22日、大阪・東和薬品RACTABドームで女子フリーが行われ、22歳・青木祐奈が194.07点で終えた演技後に引退する意向を示した。冒頭で3回転の連続ジャンプが単発になり、後半の3回転ルッツで転倒するなど不完全燃焼の演技に。「これ以上スケートを嫌いになりたくない」などと語った。 テレビ取材で今回が最後の全日本になると明かした青木。続いての囲み取材で「全日本が終わったら(去就を)考えようと思っていた」と話した上で「全日本までの期間が、今まで自分がやってきた中で一番良い練習を積み重ねて、これ以上ないくらいやって、この内容だったのはここまでかな」と涙ながらに打ち明けた。 「今シーズン、NHK杯の結果(3位)を得ることができて、ここで出し切れて、次につながるものがあれば続けようかと思っていたけど、満足したというか、これ以上スケートを嫌いになりたくないので、楽しく滑って終われて良かったです」 22歳。当初は大学卒業を迎える昨シーズン限りで引退を考えていたが、2023年のNHK杯で5位に入ったことで翻意。「(今シーズンは)いろんな試行錯誤して、やり切ったというか、試合では(練習の質を)出し切れなかったけど、それが自分のスケート人生かな。最後、皆さんの前で笑顔で終われたので」と胸中を明かした。 まだまだ日本女子のトップ戦線にいるのも事実。しかし、本人は「全日本までに一番良い練習を積めていて、もうやり切った感覚があった。それで次につながるものがあれば、続けたい気持ちだったけど、もうたぶんないので」と話した。最終的にはコーチや両親と話して決断するというが、すでに心は決まっている様子だった。 「(冒頭の)ルッツ―ループが決まらなかった段階でのびのび滑ろうというか、肩の荷が下りたというか。最後まであきらめず、コレオとステップのところではこの景色が最後だなと思った」と回顧。「この先、国体とかもあるけど、それは楽しく滑りたい」と笑みをこぼし、今後もアイスショーなどで滑っていくつもりという。

49歳・内田有紀 「更年期の始まり」告白も「歳をとることは素敵なことだなと。飾らない自分で」

女優の内田有紀(49)が18日、「2024美的ベストコスメ大賞『ベストビューティー』受賞者発表会」に出席。「美的GRANDベストビューティーウーマン」に選出された喜びを語り、自身の生き方についても触れた。 黒のチュールをあしらったドレスで登場。美しいデコルテが目を引いた。トロフィーを手に満面の笑み。「良いんでしょうか私で…」と謙遜しつつも、「ちょっと照れくさい気持ちもある。50代を迎えるにあたって素敵な賞を頂けて、改めて歳をとることは素敵なことだなとつくづく思った」と喜びをかみしめた。 「若い頃から、早く年を重ねていきたいと思っていた」という内田。「自分の考えだったり思いであったりが全て経験値に出る」と感じており、「自分が言う言葉一つ一つが皆さんのハートに届くように。自分が人生をつまずきながら、悩んで出した結果が今の自分に全て現れているんじゃないかなと思うので、40代最後のこの年で素敵な賞を頂けて励みになる。これを糧にして努力を続けて、飾らない自分で素直に重ねていけるように」と、“自分らしさ”が内田の美しさを引き出す要因の一つとなっている。 年齢を感じさせない美貌が光るが、最近は予期せぬ不調を感じる事も。「汗が止まらなくなったり、謎の痛みとかね…。そういうことが増えました。更年期の始まりですよね。年齢的にはそういった年齢ですから」と、ありのままを包み隠さず語る。同年代や先輩と悩みを打ち明け合っては「気持ちを落ち着かせている」ことが支えになっているという。 今年は新しい出会いや、うれしい再会もあり「信頼関係を深められる一年になった。素直に生きていると良いことあるな、飾らないでかっこつけないで生きると良いなと改めて思えた」としみじみ。 「一緒に明るくハッピーに、時にはちょっと泣いてもらったりしながら過ごしていければ。これからもみんなで手をつないだ気分で年を重ねていけたらと思っております」と今後も“自分らしさ”を体現していく。 本賞は、読者の投票によって選ばれた“今年最も輝いている人”に贈られる。

『金スマ』飯島愛さんVTR「あれから16年が経ちました」 反響続々「演者をこんなに思ってくれる番組、他には無いよなぁ」

13日放送のTBS系バラエティー『中居正広の金曜日のスマイルたちへ』では、同番組に出演しており、2008年12月に亡くなったタレント・飯島愛さん(享年36)をエンディングで追悼した。 エンディングでは「飯島愛さん あれから16年が経ちました」とのテロップが表示され、当時の飯島さんの映像とともに、初回からナレーションを務め、2021年に亡くなった八奈見乗児さんのナレーションで「今年もあとわずか。この時期になると、飯島愛さん、あなたを思い出します」とコメント。最後に「そんな愛ちゃんでも、聞いたら驚くようなことが、今年たくさんありましたよ。これからも見守っていてくださいね」と呼びかけた。 SNSでは「飯島愛さん、すごく好きだった。 彼女を偲びいつまでも忘れない金スマ、ステキな番組だね。」「毎年この時期になると飯島愛ちゃんの映像が流れる 演者をこんなに思ってくれる番組…… 他には無いよなぁって」「飯島愛さん カッコいいお姉さんだったな… 今の日本を見ていたらなんて言ったんだろう」「飯島愛ちゃん 人を傷付ける様な発言をせず、ズバッと言う人だった…。 今年も飯島愛ちゃんのことを放送して下さった金スマさん、ありがとうございます」などといった感想が寄せられている。

17回忌「飯島愛」は、なぜクリスマスイブに「孤独死」した姿で見つかったのか “親友”モト冬樹が語っていた「最後の会話」

クリスマスを前に、街はイルミネーションで華やいでいる。肩を寄せ合って歩く恋人たちや、手を繋ぎ、微笑み合いながら歩く家族連れ――。2008年のイブもそうだった。街に煌びやかな電飾が瞬く中、それを見下ろす渋谷の高級マンションの一室で、遺体で見つかったのが飯島愛(享年36)。今年ではや17回忌を迎える。なぜ彼女は孤独死したのか。「週刊新潮」では彼女の死から10年後の2018年、親友と言われた「モト冬樹」にインタビューしている。それを再録しながら、彼女の人生を振り返ってみよう。 (「週刊新潮」2018年12月27日号記事に大幅に加筆しました)  この12月13日。生前の彼女がレギュラー出演していたTBS系「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」のエンディングでは、「飯島愛さん あれから16年が経ちました」とのテロップと共に、当時の飯島の映像が流された。そして、「今年もあとわずか。この時期になると、飯島愛さん、あなたを思い出します」「愛ちゃんでも、聞いたら驚くようなことが、今年たくさんありましたよ。これからも見守っていてくださいね」とのナレーションが。同番組では毎年、この季節になると追悼VTRが流される。死後16年が経過しているが、いかに彼女が出演者に、そして視聴者に愛されていたかを示す場面だ。 お金が欲しい  まずは彼女が著した自伝を元に、飯島の人生を振り返ってみよう。  飯島は1972年、江東区亀戸で生まれた。3人きょうだいの一番上で弟が2人いた。会社経営者の父は躾に厳しく、鉄拳が飛んでくることもしばしば。母は「あなたのためだから」と言うばかりだった。それでも優しい祖父が支えとなっていたが、中1の時、その祖父が亡くなって以後、生活が荒れる。歌舞伎町に出入りし、万引きや、カツアゲをした金でディスコに入り浸った。家出をしては連れ戻されることを繰り返し、しばしば警察の世話になるように。やがて自宅を出て、男と同棲生活を始めた。  高校を中退し、六本木のクラブなどで働くようになったが、やがて今でいう「パパ活」にも手を染めるようになった。そして旅行で訪れたNYに留学することを夢見て、「お金が欲しい」とビデオ女優としてデビュー。その直後、「ギルガメッシュないと」(テレビ朝日系列)に大胆な衣装で出演すると、一躍人気を博し、タレントへと転身したのだ。 170万部のベストセラー  ビデオの世界から引退し、レギュラー番組を何本も持つ「人気タレント」となった飯島が、「文化人」にまで位置づけられるようになったのは2000年。波乱万丈の人生を綴った自伝が、170万部を超えるベストセラーになった。著書の中では、妊娠、中絶、整形手術をしたことまで明かし、また父母との和解も記している。テレビドラマ化、映画化され、台湾でも翻訳出版された。とりわけ自らの居場所が見つからない女性たちに、大きな共感を持って受け止められたのである。  これを機にますます引っ張りだこになった飯島だが、この頃から心身を壊していく。身体は細り始め、収録に遅刻したり、ドタキャンしたりすることもあった。2007年には腎盂炎による体調悪化を理由に、芸能界を引退。以後はブログを更新しながら、女性のために避妊具を販売する会社の起業や、エイズ撲滅キャンペーンにも取り組んでいた。そんな最中の2008年12月24日。自宅である渋谷の21階建て高級マンション最上階の一室で、死後一週間経った状態で発見されたのである。遺書はなかった。突然の死は謎を呼んだが、後に死因は「肺炎」と発表された。  それから今年で16年が過ぎたが、今なお、その鮮烈な生き方と謎の死がメディアなどで折に触れて取り上げられている。 常に全力  そんな飯島の芸能界における「親友」がモト冬樹(73)だった。「週刊新潮」では、飯島の死から10年後の2018年、モトに取材をし、彼女の死の真相について聞いている。 「あの時(=飯島の訃報を聞いた時)、オレは映画を撮っていたんだよね」  モトはそう振り返っている。 「そしたら、共通の友達からの電話で飯島が亡くなったことを知らされた。説明するのが難しいんだけど、とにかくビックリして、がっかりしたのに、どこかで納得している部分もあるというか……。アイツ、常に全力で、周りを引っ掻き回して濃く生きてきたでしょ。これだけ驚かせるなんて、アイツらしい逝き方でもあるんじゃないかな、って」 来るなら夜に来い!  2人が出会ったのは、日本テレビ系「夜も一生けんめい」での共演。そこで意気投合し、プライベートでも行動を共にするようになった。家族旅行に同行したり、弟の結婚式にも呼ばれたりしたという。週刊誌に「恋人」と書かれたことも一度や二度ではなかった。 「あの頃はオレも独身でフットワークが軽かったから、しょっちゅう遊びに行ったよ。映画に誘ってきたから行ったら開始10分で寝始めたり、オレがオーストラリアでお土産に買ってきた羊毛の敷物を、犬がおしっこする場所にしていたり……。なぜかアイツの家族旅行に呼ばれて香港に行ったこともある。旅行中、飯島がホテルのオレの部屋のベルを鳴らして、“買い物付き合ってよ”と言うから、ドアを開けながら“なんでだよ、部屋に来るなら夜に来い!”ってギャグで切り返したら、隣に渋い顔したお父さんが立ってたんだ。お父さん、マジメな人だからあの時は焦ったよ。ふざけてばかりで人をおちょくる奴だったけど、一緒にいると本当におかしくって仕方なかったな」 弱々しい声 「元気? ご飯でも行こうよ」  モトのところに一本の電話があったのは、彼女が亡くなる直前のこと。 「今になって考えるとだけど、電話越しの声がいつもより弱々しかったんだよね。でも、その時、オレ仕事が忙しかったの。だから、いつもと同じ軽い調子で、“また今度、時間がある時にな”って断ってしまって」  それから程なく、飯島は息をひきとり、誰にも発見されないまま1週間もの時を過ごしたのだ。 7万2000件の書き込み  彼女の死後、驚きを持って受け止められたのは、両親によって継続されたブログに、彼女に向けてのメッセージが多数寄せられ続けたことである。「あいちんは元気かな? ? って おかしいかもしれないけど…まだ何処かに居そうでさ…」「愛ちゃん いつも助けてくれてありがとう…

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