Japan News

全焼した軽乗用車の中から身元不明の遺体…近くに血を流した75歳男性 さいたま市

さいたま市の路上で21日夜、車が燃え、車内から遺体が見つかりました。

全焼した軽乗用車の中から身元不明の遺体…近くに血を流した75歳男性 さいたま市(FNNプライムオンライン(フジテレビ系)) - Yahoo!ニュース

車の近くでは腹から血を流した男性が見つかり、警察は何らかの事情を知っているとみて話を聞く方針です。

21日午後11時半ごろ、さいたま市桜区の路上で通行人から「車が燃えている」と110番通報がありました。

さいたま市で軽乗用車炎上 車内から性別不明の遺体 付近でけがしていた男性(75)から事情聞く方針|au Webポータル国内ニュース

火は約40分後に消し止められましたが、軽乗用車1台が全焼し、車内から性別や身元不明の遺体が見つかりました。

警察によりますと、車の近くには75歳の男性が腹部から血を流した状態で倒れていて、病院に運ばれました。

男性は搬送時に意識はあり、現在、治療を受けているということです。

警察は、この男性が何らかの事情を知っているとみて、治療が終わり次第、詳しい事情を聞く方針です。

Related Posts

17回忌「飯島愛」は、なぜクリスマスイブに「孤独死」した姿で見つかったのか “親友”モト冬樹が語っていた「最後の会話」

クリスマスを前に、街はイルミネーションで華やいでいる。肩を寄せ合って歩く恋人たちや、手を繋ぎ、微笑み合いながら歩く家族連れ――。2008年のイブもそうだった。街に煌びやかな電飾が瞬く中、それを見下ろす渋谷の高級マンションの一室で、遺体で見つかったのが飯島愛(享年36)。今年ではや17回忌を迎える。なぜ彼女は孤独死したのか。「週刊新潮」では彼女の死から10年後の2018年、親友と言われた「モト冬樹」にインタビューしている。それを再録しながら、彼女の人生を振り返ってみよう。 (「週刊新潮」2018年12月27日号記事に大幅に加筆しました)  この12月13日。生前の彼女がレギュラー出演していたTBS系「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」のエンディングでは、「飯島愛さん あれから16年が経ちました」とのテロップと共に、当時の飯島の映像が流された。そして、「今年もあとわずか。この時期になると、飯島愛さん、あなたを思い出します」「愛ちゃんでも、聞いたら驚くようなことが、今年たくさんありましたよ。これからも見守っていてくださいね」とのナレーションが。同番組では毎年、この季節になると追悼VTRが流される。死後16年が経過しているが、いかに彼女が出演者に、そして視聴者に愛されていたかを示す場面だ。 お金が欲しい  まずは彼女が著した自伝を元に、飯島の人生を振り返ってみよう。  飯島は1972年、江東区亀戸で生まれた。3人きょうだいの一番上で弟が2人いた。会社経営者の父は躾に厳しく、鉄拳が飛んでくることもしばしば。母は「あなたのためだから」と言うばかりだった。それでも優しい祖父が支えとなっていたが、中1の時、その祖父が亡くなって以後、生活が荒れる。歌舞伎町に出入りし、万引きや、カツアゲをした金でディスコに入り浸った。家出をしては連れ戻されることを繰り返し、しばしば警察の世話になるように。やがて自宅を出て、男と同棲生活を始めた。  高校を中退し、六本木のクラブなどで働くようになったが、やがて今でいう「パパ活」にも手を染めるようになった。そして旅行で訪れたNYに留学することを夢見て、「お金が欲しい」とビデオ女優としてデビュー。その直後、「ギルガメッシュないと」(テレビ朝日系列)に大胆な衣装で出演すると、一躍人気を博し、タレントへと転身したのだ。 170万部のベストセラー  ビデオの世界から引退し、レギュラー番組を何本も持つ「人気タレント」となった飯島が、「文化人」にまで位置づけられるようになったのは2000年。波乱万丈の人生を綴った自伝が、170万部を超えるベストセラーになった。著書の中では、妊娠、中絶、整形手術をしたことまで明かし、また父母との和解も記している。テレビドラマ化、映画化され、台湾でも翻訳出版された。とりわけ自らの居場所が見つからない女性たちに、大きな共感を持って受け止められたのである。  これを機にますます引っ張りだこになった飯島だが、この頃から心身を壊していく。身体は細り始め、収録に遅刻したり、ドタキャンしたりすることもあった。2007年には腎盂炎による体調悪化を理由に、芸能界を引退。以後はブログを更新しながら、女性のために避妊具を販売する会社の起業や、エイズ撲滅キャンペーンにも取り組んでいた。そんな最中の2008年12月24日。自宅である渋谷の21階建て高級マンション最上階の一室で、死後一週間経った状態で発見されたのである。遺書はなかった。突然の死は謎を呼んだが、後に死因は「肺炎」と発表された。  それから今年で16年が過ぎたが、今なお、その鮮烈な生き方と謎の死がメディアなどで折に触れて取り上げられている。 常に全力  そんな飯島の芸能界における「親友」がモト冬樹(73)だった。「週刊新潮」では、飯島の死から10年後の2018年、モトに取材をし、彼女の死の真相について聞いている。 「あの時(=飯島の訃報を聞いた時)、オレは映画を撮っていたんだよね」  モトはそう振り返っている。 「そしたら、共通の友達からの電話で飯島が亡くなったことを知らされた。説明するのが難しいんだけど、とにかくビックリして、がっかりしたのに、どこかで納得している部分もあるというか……。アイツ、常に全力で、周りを引っ掻き回して濃く生きてきたでしょ。これだけ驚かせるなんて、アイツらしい逝き方でもあるんじゃないかな、って」 来るなら夜に来い!  2人が出会ったのは、日本テレビ系「夜も一生けんめい」での共演。そこで意気投合し、プライベートでも行動を共にするようになった。家族旅行に同行したり、弟の結婚式にも呼ばれたりしたという。週刊誌に「恋人」と書かれたことも一度や二度ではなかった。 「あの頃はオレも独身でフットワークが軽かったから、しょっちゅう遊びに行ったよ。映画に誘ってきたから行ったら開始10分で寝始めたり、オレがオーストラリアでお土産に買ってきた羊毛の敷物を、犬がおしっこする場所にしていたり……。なぜかアイツの家族旅行に呼ばれて香港に行ったこともある。旅行中、飯島がホテルのオレの部屋のベルを鳴らして、“買い物付き合ってよ”と言うから、ドアを開けながら“なんでだよ、部屋に来るなら夜に来い!”ってギャグで切り返したら、隣に渋い顔したお父さんが立ってたんだ。お父さん、マジメな人だからあの時は焦ったよ。ふざけてばかりで人をおちょくる奴だったけど、一緒にいると本当におかしくって仕方なかったな」 弱々しい声 「元気? ご飯でも行こうよ」  モトのところに一本の電話があったのは、彼女が亡くなる直前のこと。 「今になって考えるとだけど、電話越しの声がいつもより弱々しかったんだよね。でも、その時、オレ仕事が忙しかったの。だから、いつもと同じ軽い調子で、“また今度、時間がある時にな”って断ってしまって」  それから程なく、飯島は息をひきとり、誰にも発見されないまま1週間もの時を過ごしたのだ。 7万2000件の書き込み  彼女の死後、驚きを持って受け止められたのは、両親によって継続されたブログに、彼女に向けてのメッセージが多数寄せられ続けたことである。「あいちんは元気かな? ? って おかしいかもしれないけど…まだ何処かに居そうでさ…」「愛ちゃん いつも助けてくれてありがとう…

読売主筆・渡邉恒雄氏の墓石に刻まれた「“親友”中曽根康弘元首相が書いた一文」とは?

2024年12月19日に98歳で死去した渡邉恒雄氏は、中曽根康弘元首相との深い親交が知られている。渡辺氏は中曽根氏の追悼記事で、自らの墓碑銘を中曽根氏に書いてもらったことを明かしている。 濃密な時間を共有してきた 渡辺恒雄氏  2019年11月29日、中曽根康弘元総理大臣が101歳で亡くなりました。  訃報に接した時、本当にがっかりしました。中曽根さんは僕より8年上。初めて会ったのは60年以上も前、僕が30歳前後のヒラ記者の頃です。爾来、僕らは何事も相談し、何かあれば必ず電話で報告し、お互いのプライバシーなく付き合ってきました。家族同士も仲がよく、お孫さんとも僕は親しい。7年前に蔦子夫人が亡くなった時も僕はショックを受けたし、僕の妻も2年前に逝ってしまった。そして、今度は中曽根さんだ……。  そんな濃密な時間を共有した人がこの世からいなくなってしまったのだから、思い出すだけで本当につらい。だから、あまり考えないことにしているほどです。  2年ほど前に、こちら(読売新聞本社の主筆室)に来て、お会いしたのが最後でした。全然ぼけてなくて、頭脳は明晰でしたが、足腰が弱り、耳もほとんど聞こえなくなっていました。僕は筆談しかないなと思い、筆と紙を用意していましたが、中曽根さんの秘書が横について“通訳”してくれました。僕が言う言葉を、秘書がはっきりした声で中曽根さんの耳元で伝えてくれる。それで自由に普通の会話ができたのです。  その後、補聴器をつけても耳が聞こえなくなってしまい、足腰もさらに弱って車椅子で生活するようになったと聞きました。最後は都内の病院に入院していたそうです。僕も足が弱くなり、耳が遠くなったりして、お見舞いに行けずじまいでした。考えてみると、僕も中曽根さんの症状をそっくり辿っているかのようです。僕の方が8年下だから、まだしばらくは持つのかもしれないけれど。 中曽根さんが書いてくれた墓碑銘  実は中曽根さんのおかげで僕の墓はもうできているんです。僕の親父が死んだ時に建てた「渡邉家之墓」が都内の寺にあるのですが、その敷地の隅の方の土地が空いており、2年ほど前に思い立ってそこに僕の墓を建てることにしました。墓碑銘は中曽根さんにお願いしたら、3日で書いて送ってきてくれました。  これがその実物です(「終生一記者を貫く 渡辺恒雄之碑 中曽根康弘」と書かれ、額装された和紙を見せる)。中曽根さんが書いてくれたこの字を、墓石に彫ってもらいました。「終生一記者を貫く」という文言は、僕からお願いした。そういう墓が欲しいと、自分で思っていたからね。中曽根さんが書いてくれたその墓に、僕は入ることになるわけです。 飲み会よりも読書会  1956年に最初に中曽根さんと会った時のことは今も鮮明に覚えています。当時、初代の科学技術庁長官に就任したばかりで、原子力委員会の委員長もしていた正力松太郎さんに「中曽根君に毎日会いたまえ」と言われて、会いに行ったのです。僕は当時ヒラ記者で、政治部長の命で読売新聞の社主でもあった正力さんのところに頻繁に出入りし、いろいろ情報をもらっていました。 正力さんと中曽根さんを結びつけたのは原子力の平和利用でした。正力さんは公職追放中からそれについて考えていて、読売新聞でも原子力の平和利用をテーマに「ついに太陽をとらえた」という連載キャンペーンをやっていた。一方、中曽根さんはもともと野党で、最初は民主党で改進党などを経て、保守合同の時に自民党と合併するまで政務次官も常任委員長も縁がなかった。しかしながら彼は原子力について勉強したんだ。改進党時代にハーバード大学の夏期セミナーに行く途中、アメリカの原子力産業の勃興を見た。そして帰国後、原子力の平和利用について考えるようになった。そこを正力さんが自分の後継者として見込んだんだな。  ただ当初、僕は中曽根さんとは肌が合わないと思っていた。スタンドプレーが多く、「憲法改正の歌」なんか作っていたので、タカ派のイメージがあった。しかし実際に会ってみると、そのイメージは覆された。非常に謙虚で、しかも質素で勉強家だった。 ※本記事の全文(約1万字)は「文藝春秋 電子版」でご覧ください(渡辺恒雄「 わが友、中曽根康弘・元総理との60年 」)。全文では下記の内容をお読みいただけます。 ・ 大野伴睦に入閣を依頼する ・裏切りの「白さも白し富士の白雪……」 ・「風見鶏でいいじゃないか」 ・総理をあきらめた瞬間、気持ちを切り替えられる ・田中派にポストを握られても腐らない ・政局を生き抜いた一代の傑物 ・「ベルサイユ宮殿のような家」が3K

「長男は毎晩ぬいぐるみを涙で濡らし…」急逝の中山美穂さん、辻仁成氏との離婚で“母子断絶10年” 残された遺産の行方

駆け抜け、“ミポリン”の愛称で呼ばれた彼女がこの10年、ずっと想い続けていたのが一人息子の存在だった。 2002年に芥川賞作家でミュージシャンの辻仁成氏(65)と結婚した中山さんは、2004年に長男を出産。2014年の離婚以降、長男と会うことは叶わなかった。しかし、葬儀を終えた中山さんの妹で女優の中山忍(51)は以下のようにコメントした。 《何より姉が幸せを願ってやまない愛する息子と、再会の時間を持たせてあげることができました。手を繋ぎ、そっと寄り添う2人の姿は、とてもとても幸せなものでした》 中山さんの訃報後、20歳となった長男はパリから駆け付け、亡き母と10年ぶりの再会を果たしていた。なぜ、母と子の再会に10年という長い時が経ってしまったのか。 「中山さんは辻さんと結婚後、フランス・パリに移住しました。しかし、離婚協議中の2014年5月に音楽家の渋谷慶一郎氏との密会が報じられました。彼女はのちに“親権を譲ることが離婚の条件だった”と明かしていますが、一部からは『自分勝手』『恋愛依存体質』などと彼女の選択に批判的な声が上がりました。“家庭を捨てた母”というイメージが残り、芸能活動に支障もあったようです」(スポーツ紙記者) 2014年7月に離婚が成立し、親権を取った辻氏は離婚当時の心境を自身のブログでこう綴っている。 《ぼくは幼い息子の手を引いて、とにかく、世界中を旅しました。そうすることで、強くなれる、としんじていたようなところがあります。離婚の直後、味方は少なかった。だから、父子のきずなを強くしないとならなかったのです。ある種残酷な世界で生きてきたので、守らないと壊れてしまいそうだったから…》 「辻さんは中山さんの不倫が報じられると、10歳だった息子さんがそういった情報に触れないように苦労したそうです。息子さんの中にある“母・中山美穂”への想いを守りたかったのでしょう。離婚を機に10歳で突然、母がいなくなった息子さんは、毎晩抱きながらテディベアのぬいぐるみを涙で濡らす日々でした。 そんな育ち盛りの息子のために、辻さんは毎朝5時半に起床してお弁当を作り続けたそうです」(芸能プロ関係者) 辻氏のブログによると、中山さんの息子は現在、身長175センチで中学と高校時代はバレーボールの大会でメダルを獲るほどのスポーツマンに成長。大学に進学した彼は「目は父親似」だという。 遺産は息子に引き継がれるか 一方、離婚後、独身生活を送っていた中山さんは、自身のバンドメンバーで9歳年下のベーシスト・永田雄樹氏と交際していたが、いつの日も息子のことを気に掛けてきた。 《次にいつ息子と会えるかは父親の判断なのですが、いつもいつも愛していることは伝えているし、できるだけそばにいることも伝えています。私にできることは限られているかもしれない。でも、できることは本当にすべてしてあげたいと思っています》(『Numero TOKYO』2015年1・2月合併号) 関係者は、中山さんには歌唱印税などの遺産が生じる可能性があると指摘する。 「1992年にリリースされ、200万枚超えるヒットとなったWANDSとのコラボ曲『世界中の誰よりきっと』の作詞は上杉昇さんと中山さんの共同名義です。彼女は1993年のNHK連続テレビ小説『ええにょぼ』の主題歌『幸せになるために』も共同で作詞を手掛けています。 また浜田雅功さんと共演した1994年のドラマ『もしも願いが叶うなら』(TBS系)の『ただ泣きたくなるの』作詞も連名で携わっています。約40年にわたる芸能活動の中で、彼女は数多くのヒット曲を歌い、20曲以上の作詞などを担当しました。それらの印税は長男にも相続する権利があるそうです」(同前) 残された遺産は愛する息子への愛の証なのかもしれない。

広末涼子が芸能界の苦悩告白も…「娘に女優をやらせたい」

俳優やアーティストをゲストに迎え、これまで語られることのなかった生き様を深掘りするYouTube番組『Short Hope』。12月22日配信回から、全5回にわたって女優・広末涼子(44)が出演することが明らかになった。離婚・事務所独立にも触れられる内容とあって、すでに大きな注目を集めている。 広末の人生は、まさに波乱万丈といえるものだろう。1994年に第1回クレアラシル「ぴかぴかフェイスコンテスト」でグランプリを獲得し、同CMへの出演で14歳にして芸能界デビュー。NTTドコモのCMで一躍人気者となり、1997年には「MajiでKoiする5秒前」で歌手デビューを飾った。同年には映画『20世紀ノスタルジア』で各映画賞新人賞を総なめ。年末には『第48回NHK紅白歌合戦』にも出場しており、1990年代後半の芸能界は“ヒロスエブーム”が席巻したといっても過言ではない。 広末人気の異様な熱狂ぶりを現しているのが、早稲田大学教育学部・国語国文学科入学時のエピソードだろう。初登校時になんと3000人もの野次馬が押し寄せ、構内が大パニックになったのだ。とはいえ仕事と学業の両立は困難だったようで、2003年に「女優業に専念したい」という理由から自主退学に至っている。 2003年は早稲田退学に加えて、わずか2カ月後の「おめでた婚」発表も大きな話題を呼んだ。約2年半前からモデル・デザイナーの岡沢高宏(49)と交際を続けていた広末は、翌年4月に第1子を出産。幸せな家庭を築いていくと思われたが、2008年に「歩幅を合わせることが難しくなった」として離婚という結末を迎えることに……。 2010年にアーティストのキャンドル・ジュン(50)と再婚し、新たに2人の子をもうけた広末。ところが2023年、週刊文春によって料理人・鳥羽周作氏(46)とのW不倫が報じられ、ネット上では 《清純派のイメージ完全になくなった》 《恋愛に奔放すぎる。絶対結婚に向いてないよ》 といった、ヒロスエブームからは考えられないようなバッシングが巻き起こった。 「2022年にベストマザー賞を獲得した広末さんですが、不倫報道から1カ月半後の2023年7月にキャンドル・ジュンさんとの離婚発表に至りました。完全に風向きが変わってしまっただけにドン底から再起をかけるしかないのですが、2024年2月には26年間所属した事務所『フラーム』を退社。広末さんの迷走を不安視する人は多く、《人間的に個人で活動するより誰かがフォローしてくれる事務所に所属すべき》という声も寄せられています」(芸能ライター) 前出の番組では「逃げたかった…」「この業界が自分に合っているのか…」と芸能界で生きていくことに不安を抱えていたことも語っているという。 一方、広末にはこんな計画もあるようで……。 2023年8月の本誌取材によると、長女を芸能界デビューさせようとしているとか。広末の知人はこう話す。 「小学2年生(当時)となる娘さんについて『将来は女優をやらせたい』と広末さんが話していました。娘さんはスラッとしていて、美人なんですよ。本人も芸能界に興味を持っているようです。 テレビを見て女優さんの演技のまねをすることもあり、そんな彼女に広末さんがアドバイスしたりしているそうです」 国民的アイドルが“ステージママ”に転身する可能性も――。 とにもかくにも、22日に配信開始されるYouTube番組『Short Hope』に注目したい。

女優・中田辻希美 “さすが芸能人”なすっぴん姿までの紆余曲折 30代まで“日焼け止めなし”で後悔も

タレントの辻希美(37)が12月17日、自身のYouTubeチャンネルを更新。17歳の長女・希空(のあ)と並んですっぴんからのメイク動画を公開した。 動画は、これからお出かけだという、ヘアバンドをしたすっぴんの辻と、顔をスタンプで隠した希空が並んでメイクをするところから始まる。 自身のメイク動画について「需要ない? もう需要ない?」と自虐気味に問いかけつつ、ベースメイクからスタート。辻が希空のチークを借りて使い、希空から「酔っ払いみたい」とツッコまれたり、塗り方を教わるなど、友達のような会話が続きメイクは完了。 その後、2人でフルーツたっぷりの朝食を取り、2人でお互いの髪をヘアアイロンなどでセットして出かけるところで動画は終了する。 母娘が終始仲良く出かける身支度をするだけのたわいもない内容の動画だが、ネット上では辻のすっぴんが綺麗だと絶賛する声が上がった。 《すっぴん綺麗》 《辻ちゃんおきれいです》 《辻希美 希空ちゃん親子揃って 超超超超超超可愛い過ぎや》 《動画を観ましたが辻ちゃんすっぴんでも充分綺麗なのはさすが芸能人だと思いました》 《でもやはり30後半でこの綺麗さ若さは毎日美容努力されての結果だし普通に尊敬できます》 辻のすっぴんが綺麗だと話題になるのは今回が初めてではない。昨年、夏の家族旅行の動画をYouTubeで公開した際も、寝起きのすっぴんが“綺麗”と評判だった。しかし、意外なことに、辻はもともと美容に関してかなり無頓着だったという。 「辻さんは12歳からアイドルグループ『モーニング娘。』として活動してきました。中学生の頃には身長150cmで体重が65kgまで増えたことがあり、痩せるために“食べないダイエット”をしたこともあったそうです。しかし、そのため肌荒れを起こしてしまったり、体調不良に陥ったこともあったそうです。荒れた肌はファンデーションを塗って隠すなどで対処し、スキンケアとは無縁だったそうです」(同前) 20歳で第1子を出産後、合計4人の子供を次々と出産。各種インタビューで、育児に追われた20代は自身のケアに気を使う余裕はなかったと明かしている。 「さらに35歳ごろまで、日焼け止めを塗ったことがなかったとも話していました。もともと肌の色が濃いめで、子どもとプール遊びなどをする夏はいつも真っ黒に日焼けするので、あまり気にしていなかったそうです。 ところが、30代に入って、肌にシミができているのを発見してショックをうけ、“10代の頃からUVケアをしておけばよかった”と後悔したそうです。それからは日焼け止めをしっかり塗るようになったそうです」(同前) 紫外線ダメージを挽回するためか、’22年には日焼け対策を目的とした美容サプリのプロデュースを手がけるなど、内側からのケアにも力を入れていった辻。 「美容のためのサプリのほか、動画で食べていたフルーツたっぷりのグラノーラもそうですが、水をたくさん飲む、アサイーなどの美容食材、野菜と鶏肉中心の食生活など、内側からの健康にも力を入れているようです。 先日も、希空さんと銀座のクリニックで“ビタミン点滴”や“白玉点滴”を受けたことが話題になっていました。美容意識の高い希空さんの存在も刺激になっているようです」(同前) 美しいすっぴんの裏には惜しまぬ努力があったようだ。

「すごい言葉で叱られた」女優・中田喜子 TBSに行くのが嫌になるほど居残りさせられた名作ドラマの思い出

「1970年代後半、TBSの木曜枠は石井ふく子先生が手がけるホームドラマ、金曜枠は辛口の社会派ドラマが放送されていました。私は金曜枠にお声がけいただく機会が多く、『岸辺のアルバム』の出演依頼もその流れだと思っていたんですが、まさかこんな暗い役だなんて、思いもしませんでした」 こう出演経緯を振り返るのは中田喜子さんだ。まず台本を読んで、悩まされたのは“不機嫌な女子大生”だった。 「役作りのため、当時、住んでいた場所の近所にあった青山学院大学に足を運んで不機嫌な大学生を探したんですが、なかなか見つからなくて……」 だからこそ、脚本家や演出家と“格闘”しながら役を作り上げていったという。 「山田太一さんの脚本は、接続詞を含めてセリフひとつ変えることができません。しかも、普通はセリフとセリフの間にト書きがあるものですが、山田さんの脚本は、セリフの中に《お茶を2回すする》などとト書きがあるんです。食事シーンが多かったので、演じるのが大変でした」 こうした細かい制約のなか、鴨下信一さんがキャラクターを際立たせるための演出を手がけた。 「鴨下さんは“この作品で認められなかったら演出家をやめる”という覚悟で臨んでいたそうです。だから、本当に厳しくて、私と国広富之さんは必ず居残りさせられました。すごい言葉で叱られたものです。高校生役の国広さんも、お茶わんを洗うシーンで『高校生が両手で茶わんを洗うか!』って怒鳴られたりしていました。今振り返るとありがたいことなんですが、当時は登校拒否のように、TBSに行く日は足が重くなってしまっていました(笑)」 山口いづみと意地の張り合いで服を脱ぎ合うシーンでは、鴨下さんから役になりきって、自分で下着を買ってくるように指導された。 「あのシーンでは下着まで脱いだように見えますが、実際は肩や胸のラインまで見えるような下着姿で、あとは買ってきた下着をお互いただ投げ合っているだけ。ちょっと興ざめですよね 象徴的なラストシーンでは、自然の演出もあったという。 「台風で家が流されてしまうシーンは、多摩川でロケーションをしたんです。実は前日が豪雨で、水位が上がっていたから、よりリアルな映像に。ドラマの評判が上がると、さまざまなものが味方するといわれているんです。これも鴨下さんの執念があったからかもしれません」 『岸辺のアルバム』(TBS系・’77年) 一見幸せそうな家族4人だが、妻・則子(八千草薫)は北川(竹脇無我)との不倫にのめり込み、夫の謙作(杉浦直樹)は人身売買に手を染めるなど崩壊寸前。多摩川の水害により家が流される場面で、4人が持ち出したのは偽りの笑顔が詰まったアルバムだった。名作すぎる! 【PROFILE】 なかだ・よしこ 1953年生まれ、東京都出身。1972年にドラマデビュー後、数多くのドラマ、映画に出演。1990年に始まった『渡る世間は鬼ばかり』シリーズには20数年にわたって出演した。また、DIYの達人としても知られている。

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *